「こんにちわ、アリス」    あるいい天気と気候の日。私の家に、狼狐さんが遊びに来た。とんとんと叩かれた扉を開けてそこにいた彼に、私はにっこりと微笑む。  さっそく家に招き入れて、椅子に座ってもらい私は台所へ立つ。おいしい紅茶を入れてあげるの。  照れ臭い話だけれど、私たちは恋人同士だ。もちろん寿命は違うから、いつかは離れ離れ。  でも、それでもいいの。今が幸せだから。いつか枯れるからといって花を愛でない馬鹿はいないでしょう? そういうこと。   「はい、どうぞ」 「ありがとう」    ふんわりといい匂いが香る紅茶を二つテーブルの上に置いて、私は彼の向かい側に座った。   「うん、おいしい」 「うふふ、でしょ?」    貴方のためにブレンドした紅茶だもの、とは口に出さなかった。恩着せがましい女と思われるのは嫌だもの。  それに何より、子供のように微笑みながらカップの中の紅茶を味わう彼を見つめるだけで私は嬉しいんだから。  と、狼狐さんは飲み終わったカップを机に置くと、私の顔をじっと見ながら口を開いた。   「ねぇアリス、耳掃除してあげようか」 「えっ。……うん、御願い」    唐突な提案だったけれど、断る理由はない。むしろ嬉しい。やっぱり優しいなぁ、狼狐さん。  よいしょと呟きながら立ち上がって、狼狐さんはソファーに座った。ちょいちょいと私を手招きしている。可愛い。   「さ、膝に寝転んで」    言われた通りに私は彼の膝の上に頭を預けてソファーに転がった。顔を彼のお腹と反対の方に向けて、目を瞑る。  彼の膝の上はあったかいなぁ。このまま眠りたくなってしまいそう。   「それじゃ、耳掃除するね。あ、その前に注射」 「えぇ。……えっ?」    呆気に取られた私の声を気にすることもなく、彼は私の首にプスリと針のようなものを刺してきた。同時に、液体が流し込まれる感覚もやってくる。   「い、今の……何?」 「いや、耳掃除中に動いたら危ないだろ? 僕はアリスに痛い目に会って欲しくないんだ。そのための麻酔さ」    なんという優しさなのかしら。さすが私が惚れた男性ね……なんて。うふふ。   「じゃ、早速」 「うん、御願い」    私が返事をした瞬間――ギュィィィィィィィィンととんでもない爆音が聞こえてきた。え、何この音?   「ちょ、何の音――んっ」    慌てて起き上がろうとしたけれど、狼狐さんに軽く抑えられただけで倒れてしまう。薬が効いているようだ。   「大丈夫だよ、僕が香霖堂で見つけてきた外の世界の耳掃除機の音さ」    なんだ、そういうことだったのね。びっくりした。   「それじゃいくよー」 「うん……」    返事はしたものの、正直耳元で爆音が鳴り響くのは気になるというか耳が痛く――なってないわね。  どうやら薬が効いてきたみたい。目と口以外は全く動けないわ。でもなんだかいい気持ち、彼の膝と私が一体化してるみたいなんだもの。   「んん、ちょっと難しいな……」    狼狐さんのそんな呟きが聞こえてきた。多分、初めて使う機械に慣れていないのだろう。  ほほえましいわ、と彼が悪戦苦闘している顔を想像しながらにこにこと笑っていると――突然、目に何かが入ってきて、思わず目を閉じてしまう。  何かの液体が私の目にかかったみたい。うふふ、きっと彼の汗ね。よっぽど苦労してるみたい。  と。上からふぅ、と息を吐く音が聞こえてきた。あら、終わっちゃったのかしら。   「……うん、こんなものかな。見てごらん、アリス。っと、目に入っちゃったかな」    そういって、狼狐さんは私の目を拭ってくれ、顔の前に鏡を出した。そこに写っている自分をみて――   「いやああああああああああああああああああああああ!!」    私は、悲鳴を上げた。私の、顔の、一部が……欠落している! まるで私の顔が映った写真を、鋏で端から三角に切り取ったかのように!  じゃあまさか、さっき目に入ってきたのは――血!?   「落ち着きなよアリス、近所迷惑だよ」    飽くまで爽やかな声で狼狐さんが言ったけれど、私にそんな余裕はない。何よこれ、どういうことなの?  私が混乱していると、彼は鏡を置いて、が私の体を仰向けに転がした。狼狐さんはやっぱりにっこりと笑っていて――手に何かを持っていた。   「それ、それって、ひっ、ひぃいぁぁああぁぁあ!!」 「うん、君の耳とその土台部分さ。これでやりやすくなるね」    彼が持っていたのは、血だらけの肉の塊。そこに、耳が――私の耳がくっついていた。   「さすが小型電動ノコギリ、良く切れたよ」    ソファーの背もたれの部分の上に置かれている機械がそうなのだろう、ギザギザの小さい輪がついた物がついている……!   「大丈夫かいアリス、顔色が悪いよ」 「なんで……なんで、こんなことぉ……!」 「決まってるじゃないか!」    狂ってしまったの、という含みを込めた私の呟きに、狼狐さんは大きく手を広げて叫ぶ。   「アリス! アリス・マーガロイド! 君には常に綺麗にいて欲しいからさ!   綺麗で清潔で可憐で美しく可愛らしく愛らしくいて欲しい、ただそれだけさ!」 「意味が、わかんないわよぉ!」    狂ってない。この人はいま、狂ってなんかいない。目も表情も常人のもの。本気で心の底からそう思っている!  それが何よりも怖い。狂っていないのに狂ったことをしていることが怖いッ!!   「さぁアリス、耳掃除の時間だよ。これを使えば――君の耳の中には何のカスも残らない」 「やめっ……やめてぇえええぇぇええぇえ!!」    狼狐さんが取り出したのは、細いヤスリ。あれで私の耳の中の肉壁を削るつもりなのだろう。  取り除かれてしまったとはいえ、あれは私の一部。それを蹂躙される姿を見るなんて、耐えられないっ……!   「やめないよアリス。これは全てが全て全部が全部何もかも君のためなんだから」 「ひぃ……狂ってる、狂ってるわよぉ……!」 「ははは、気のせいさ」    こんな人じゃなかった。こんなまともな表情で狂ったことをする人じゃなかった!   「うん、よく削れてる。素晴らしいね」    ただただ涙を流す私の目の前で、彼は手に持った耳の中をごりごりと削っている。  時折聞こえる、ぬちゃあ、という音が気持ち悪くてしょうがない。削れた肉がヤスリの表面に絡み合って纏わりついている音だろう。  自分の耳が今そうされてるというだけで、気が狂ってしまいそう……! 恐怖で失ってしまいそうな意識を何とか保って、私は思わず呟いた。   「あなた、は、誰……なの?」 「は? 何を言ってるんだい、アリス。僕は僕だよ、狼狐さ!」    違う。彼はこんな人じゃない。優しくて優しくて、誰よりも甘い人。私のためだからと私を傷つけるなんて、絶対にしないっ!   「あなたは……狼狐さんなんかじゃないッ!!」 「そのとおりだよ」    突然家の中に響いた声と共に、私の目の前にあった『男』の顔が吹き飛んだ。  体を司る頭を失った体はばたりと崩れるように倒れ、必然的に私の体もごろりと床に転がった。   「遅くなったね、アリス。ごめんよ」    そういって私の体を起こしたのは――他でもない、狼狐さん!   「狼狐さんっ! 狼狐さぁんっ!」 「ホントにごめんよ。あの偽物にずっと家に閉じ込められていてね。謎の覆面魔法使いマ・リーサに助けられてようやくここにこれたんだ」    いいの、いいのよ狼狐さん! 貴方は私を助けてくれた。私のピンチに駆けつけてくれた! それだけで、何もかも忘れて許すわ!   「まったくあの偽物め、酷いことをする……」    ぽつりと呟いて、彼は近くに落ちていたらしい私の一部を拾った。   「いいのよ、こうやって貴方が来てくれただけで私は……」 「すぐにくっつけるよ」 「うん……え?」    私の体を床に優しく寝かせて、狼狐さんが立ち上がる。その姿を目で追っていると――彼は何かの機械を持ち上げた。  カチャカチャという音がしかと思うと――ジュィィィィィィンという爆音が、家の中に響いた。   「安心して。溶接は初めてだけど多分何とかなるさ」 「な、何を言ってるの、狼狐さん」 「ホントに許せないよ、あの偽物。耳掃除のためとはいえアリスの顔を傷つけるなんて。  大丈夫、僕はちゃんと――耳がついたままヤスリを使うから」    私は悲鳴を上げて気絶するしかなかった。