――またか、と男は呟いた。 ――アリス・マーガトロイドは、目を覚ましてベッドから起き上がった。 朝だと思ったが、太陽は既に天高く昇ってしまってる。どうやら、昼過ぎまで寝ていたらしい。 珍しいこともあるもんだと一人呟きつつ、ベッドから降りようとしたとき――部屋に誰かがいるのに気づいた。 それは奇妙な男だった。真っ黒いコートを着て、真っ黒いズボンと靴を履いて、真っ黒な帽子を深く被っていた。 帽子の影でその表情は殆ど読めないが、目だけはまるで炎のように赤く煌いてた。 こんな知り合いはいない、目の色からして妖怪かとアリスは身構えたが――そのまま男は動かなった。 それでも緊張の糸は解かずにアリスは男にゆっくりと近づこうとした。と、その瞬間――男は口を開いた。 「貴方にとって大切なものを教えていただきたい」 奇妙な質問だった。質問の意図も意味も分からない。アリスは一層警戒心を強くした。 だがアリスのあからさまな不信感を無視して、男は片手を顎に当ててスリスリと摩りながら、 赤黒く燃える瞳でアリスの目をじーっと見つめ始めた。そのまましばらくして、男が再び口を開いた。 「……フム。これは珍しい。大切なものが、何一つないなんて」 その言葉で、がつりと頭を殴られたかのような衝撃がアリスの脳に響いた。 「私の目は特殊でね。相手の目を見つめるとその人の大切なモノがわかる。物であれ、者であれ。  だが貴方には何もない。本当に大切なものが何一つ、友人も、家族も、宝物もない。  ……自分自身すらも、貴方にとっては大切ではないようで」 「何を、馬鹿な」 口では否定しているが、アリスの理性は男の言葉を否定し切れなかった。 「友人はいない。家族は心底どうでもよさげ。人形も心の奥では道具としか見ていない」 「そっ、そんなことはないッ!!」 男の言葉を遮ろうと、アリスが大きな声で否定の言葉を吐いた。 反論の言葉をぶつけ様とするが、その前に男の口が再び動き出す。 「……そしてそれら全てが見せかけ。  ――本当は友人と笑って騒いで遊びたいのに。  ――本当は家族に泣いて喚いて甘えたいのに。  ――本当は人形を愛して愛して止まないのに。  都会派だと自分自身を軽く定義してそうあろうとしてる。愚かでさもしい人ですね貴方は」 「うっ、うるさいぃぃぃ……」 あっさりと、本当にあっさりと、アリスは反論の余地を消し去られた。 ゆえに――アリスは理論も理性もない喚き声を呟くしかなかった。 いや、もはや呟きにもなっていない。消えいくような声は、アリスの心が折れかけている証拠ともいえた。 ――だがそれでも男は止まらない。 「大切なものがない者は誰にも大切にされない。貴方がいなくなっても誰も困らない。  いや、いなくなったと気づかれもしないかもしれない。何故生きてるんですか貴方?  大切なものが何一つない人生、探そうとすらしない人生! それに何の意味があるんです?  周りを偽って自分を偽っていやそれだけじゃない全てを偽って偽って偽って偽って偽って偽って!  先に何がありますか? ……何もないでしょう? 偽りのガラスで出来た宝石なんか、誰も欲しがりはしないのですよ」 「うぅ……やめてェ……やめてよォ……」 次々と、男はアリスに罵倒の言葉をぶつけ続ける。心が半ば折れかけているアリスは聞き入れるほかない。 と、喋るのをやめたかと思うと、影で殆ど見えなかった男の顔に、白い線が走った。……どうやら、笑ったらしい。 「さて、……大切なもの、できましたね」 「え……?」 「今、この瞬間。大切な思い出が出来ましたでしょう? 貴方は私の罵倒を受け入れました。  これからそれを直していけばいい。悪いところは直せば良いところになる。そうでしょう?  貴方はきっと将来的に、私の罵倒を『自分が変わるための大切なきっかけだった』と思うことでしょう。  ……それに、一つ大切なものが出来れば、それはまた別な大切なものを呼び寄せるものです。  だから――私と会った今日の日を、大切にしてくださいますね?」 「……えぇ」 折れかけていた心が再び真っ直ぐに戻ろうとしていくような気持ちをアリスは感じていた。 そうだ、変わればいい。私はこの男の罵倒ですぐに悲しくなった。それはつまり悪い所なのだと自覚していたということ。 だったら! それを変えれば私はきっと、……素晴らしい生き方が出来る。 「ありがとう、貴方が何者なのかはさっぱり分からないし結局何しに来たのかもよくわからないけど。  ……それでも、大切にするわ。今日のこの日を」 「そうですか」 アリスの言葉に、男の顔の白い線が広がる。にっこりと歯をむき出して笑っているようだった。 その不気味すぎる笑顔に、だが、アリスは何となく可笑しさを覚え――クスクスと、楽しそうに笑いだした。 「じゃ、いただきますね」 「……え?」 アリスは男の言葉に呆気にとられ、ぽかんと口を開けた。何を突然? 「言ったでしょ? 貴方にとって大切なものを教えて、『いただきます』、って。  大切なものが私の食料なんですよ。そういう、妖怪なんでね」 そういうなり、男は大きく口を開けて、あたりの空気を吸い込み始めた。 同時に、アリスの頭からもやもやとした煙のようなものが発生して、男の口へと吸い込まれていった。 飛んでいく記憶の中、アリスはふと思い出した。 ――そういえば私、この男と会ったのは今日でもう87回目――! その事実にアリスは絶望的な表情を浮かべたが、すぐさまそれは消え去えて――ぱたりと、ベッドに倒れた。 「はァ……」 アリスの大切な記憶を吸い取った男は、深い深いため息を吐いた。 ベッドに倒れたアリスはすぐさま起き上がるだろう。吸い込んだ記憶は飽くまで自分と出会ってからのもの。 体には何の危害も加えていない――そもそも加えるだけの力もない――ので、朝目覚めたかのような感覚で起き上がってくる。 もう今ので87回目の食事だ。……正直、もう勘弁して欲しかった。飽きたし、腹もとっくに膨らんだ。 だが特殊な妖怪であるにも関わらず、妖怪らしい弱点が自分には存在している。 『一度姿を見られてしまったら、大切なものを吸い込むまで、その見たものから離れられない』。 しかも、すぐさまに。迅速に、吸い込まなくてはならないというルールまである。 何度吸い込んでも、立ち去る前にこの女は自分の姿を見る。だからまた吸い込まなければならない。 半永久的に繰り返されるであろう試行。……吸い込む瞬間女が絶望的な顔をしてくれるのだけが救いだ。 この拷問から解放されるには、この女を訪ねるものが誰もいない以上、一つしかない。どちらかが死ぬ。 ……もう諦めはついている。俺が飽食で死ぬか、女が餓死するか。勝負と行こうじゃないか!